遙かなるポーランド

・・・・日本とポーランド・・・・

親日的な国民感情

◆日本が大好きな人々

盆栽サムライ ポーランドは日本から遠い国ですが、ポーランドの人々の多くは日本にとても親しみを持っています。今や日本食ブームは世界的なものになっていますが、ワルシャワにも日本人のオーナーやシェフが腕をふるう本格的な日本料理店が数軒あり、ポーランド人が経営するスシ・バーにいたっては100軒以上もあります。
 また、市内には柔道・空手・剣術・合気道の道場がたくさんあり、弓道場もあります。東欧は(今は中欧と呼ばれることが多いですが)、もともと日本の武道が盛んなところなのです。ワルシャワ市内には、柔道を体育の正課としている学校、日本舞踊や折り紙を教えている学校、日本文化研究クラブのある学校などもあります。ときには、ワルシャワ市盆栽協会主催の盆栽展が行われたり茶道教室が開かれたりすることもあります。

◆日本学

ワルシャワ大学今、若い人の間でブームになっているのは日本のアニメです。マンガが縁で日本語や日本文化に興味を持つようになった高校生や大学生もたくさんいます。
 ワルシャワ大学には日本学科(日本語学科ではなく日本学科)があり、毎年20倍から30倍の受験者が殺到する超難関となっています。学生のほとんどが8年間の在学中に1~2度は日本に留学します。日本学科のある先生は、「留学生の多くが日本の学生から“おまえの日本語は古くさい”と言われて“新しい日本語”を覚えて帰ってくるため、帰国後に正しい日本語に戻すのに骨が折れるのです」と、苦笑しながら語っておられました。同学科で教えるのは、国語審議会が認める正統な日本語で、将来大臣クラスの通訳をすることになっても通用するレベルを目指しているのです。大学3年終了迄に2000字近くの常用漢字をマスターしなければ転科または退学となるため、学生たちは授業以外に毎日6時間の自宅学習をしているとのことです。

◆高い日本語教育レベル

日本語弁論大会 ワルシャワでは、毎年3月頃に日本大使館主催の日本語弁論大会が行われ、各大学から学生が出場します。近年は、クラコフのヤギェウォ大学やポズナニのアダム・ミツキエヴィッチ大学の学生が優勝することもあり、ワルシャワ大学の学生も安穏としておれない状況のようです。
 ヨーロッパ各国で開催される日本語弁論大会のために巡回している日本人審査員によれば、ポーランドの大学はいずれも日本語のレベルが非常に高いとのことです。本当の実力は、弁論のあとで行われる審査員との自由討議でよくわかるからです。美しい日本語でよどみなく発表した学生でも、その後の審査員との一問一答のやりとりでしどろもどろになることがあるそうです。
 日本学科学生や研究者の関心は、日本語という言語そのものにかぎらず、日本の文化や歴史などにも大きく向けられています。さらに、彼らの研究対象は、日本文化と深い関わりのある中国や韓国の文化・言語にまで及んでいます。そこには、すそ野の広い研究と教育の姿勢が感じられます。彼らの高い日本語能力は、こうした幅広く層の厚い学習と研究姿勢によるものなのでしょう。

<おすすめ動画>(YouTubeリンク)
★ワルシャワ大学日本学科の学生が四字熟語を駆使して街を案内します.(7分)

★私が日本を好きな理由/ポーランド人女子高校生が語る日本の魅力(3分)

★ポーランド親日事情①/河添恵子 AJER2012.5.23(1) (13分)

★ポーランド親日事情②/河添恵子 AJER2012.5.23(2) (14分)

★ポーランドの人は、日本人になりたいほど日本が大好き!(10分)


◆ありがとう、ワイダさん。

◇大災害の日本に向けたアンジェイ・ワイダ監督からのメッセージ   2011年3月21日
アンジェイ・ワイダ監督からのメッセージ
 

日本の友人たちへ。

このたびの苦難の時に当たって、心の底からご同情申し上げます。深く悲しみをともにすると同時に、称賛の思いも強くしています。恐るべき大災害に皆さんが立ち向かう姿をみると、常に日本人に対して抱き続けてきた尊敬の念を新たにします。その姿は、世界中が見習うべき模範です。
 ポーランドのテレビに映し出される大地震と津波の恐るべき映像。美しい国に途方もない災いが降りかかっています。それを見て、問わずにはいられません。「大自然が与えるこのような残酷非道に対し、人はどう応えたらいいのか」
 私はこう答えるのみです。「こうした経験を積み重ねて、日本人は強くなった。理解を超えた自然の力は、民族の運命であり、民族の生活の一部だという事実を、何世紀にもわたり日本人は受け入れてきた。今度のような悲劇や苦難を乗り越えて日本民族は生き続け、国を再建していくでしょう」
 日本の友人たちよ。
 あなた方の国民性の素晴らしい点はすべて、ある事実を常に意識していることとつながっています。すなわち、人はいつ何時、危機に直面して自己の生き方を見直さざるをえなくなるか分からない、という事実です。
 それにもかかわらず、日本人が悲観主義に陥らないのは、驚くべきことであり、また素晴らしいことです。悲観どころか、日本の芸術には生きることへの喜びと楽観があふれています。日本の芸術は人の本質を見事に描き、力強く、様式においても完璧です。
 日本は私にとって大切な国です。日本での仕事や日本への旅で出会い、個人的に知遇を得た多くの人々。ポーランドの古都クラクフに日本美術・技術センターを建設するのに協力しあった仲間たち。天皇、皇后両陛下に同行してクラクフを訪れた皆さんは、日本とその文化が、ポーランドでいかに尊敬の念をもって見られているか、知っているに違いありません。
 2002年7月の、あの忘れられないご訪問は、私たちにとって記念すべき出来事であり、以来、毎年、私たちの日本美術・技術センターでは記念行事を行ってきました。
 日本の皆さんへ。
 私はあなたたちに思いをはせています。この悪夢が早く終わって、繰り返されないよう、心から願っています。この至難の時を、力強く、決意をもって乗り越えられんことを。
    ワルシャワより  アンジェイ・ワイダ

(以上、共同通信記事から引用)

アンジェイ・ワイダ氏

アンジェイ・ワイダ  ポーランドを代表する映画監督。若い頃、浮世絵など日本の芸術に感銘を受け、美術大学に入学、のち映画監督になる。『地下水道』など抵抗三部作と呼ばれる作品では、ナチスの暴虐と戦った市民の姿を描き、その後はナチスに代わってポーランドの自由を奪ったソ連への抵抗を描いた。ワレサ議長率いる「連帯」活動に参加、ポーランドの民主化に大きく貢献した。最新作『カティン』で描かれているカティンの森事件では、氏の父親もソ連軍に虐殺された4,000人にのぼるポーランド軍将校の一人だった。過去と未来をつなぐために今を生きているという信念のもとに映画を撮り続ける。映画監督として仕事に取り組む姿勢は厳しいが、ふだんは気さくな好々爺である。大の親日家で、日本の風景を描いたスケッチも多い。
★映画「カティンの森」(アンジェイ・ワイダ監督.2009年アカデミー賞ノミネート作品)予告編
★映画「ワレサ 連帯の男」(アンジェイ・ワイダ監督.最新作2013年)予告編

親日感情の背景

その1 日露戦争とポーランド

日露戦争(1904~1905)は、日本が帝政ロシア相手に戦って勝利した戦争ですが、この戦争を機に、ポーランドの親日感情が一気に高まったと言われています。この頃、ポーランドはロシアとプロシャに分割され、地図上にポーランドという国はありませんでした。当時、極東の一小国に過ぎなかった日本が、超大国帝政ロシアを相手に互角に戦い、そして勝利したことは、ロシアに長年支配され続けていたポーランドの人々に強い衝撃を与え、自由と独立への希望がめばえたのです。さらに、ロシア軍の前線には多くのポーランド人が兵士として送り込まれていましたが、日本軍は捕虜としたこれらの人々をきわめて人道的にあつかい、本国に送り返しました。日本人の「武士道精神」としてポーランドの人々に語り継がれています。

日本海海戦日露戦争
(日本海海戦:三笠艦橋の図)
(日本軍将校と捕虜のロシア軍将校)
◇「日本と日本人」

日露戦争の勝利は単に有色人種に止まらず、ロシアの圧政に苦しむフィンランドやポーランドなどへも飛び火し、民族国家独立闘争を激化させた。ポーランドの作家プルスは『クーリエ・コディゼニー』に「日本と日本人」を連載し、日本に見習えと次のように説いた。
 日本人の最も優れているのは愛国心である。日本人の愛国心は外国人への憎しみや軽蔑に根ざしたものでなく、己に属するすべてのものに対する愛情に基づいている。軍のために何人かの者がその命を犠牲にして任務を遂行する必要が生じた場合、何人かではなく何千人もの者が自らその任務に志願するだろう。・・・(中略)・・・これが、つい二年前にはヨーロッパ人に『猿』と呼ばれていたにもかかわらず、今は敵国からも尊敬を集めている国の姿である。尊敬されたいと思うなら日本人を手本として努力しなければならない。
                ( 平間洋一 「日露戦争と国際社会」から )



その2 シベリア孤児の救出

大正時代の日本は世界に誇れるすばらしいことをしていました。シベリア孤児の救出です。
 ポーランドは1918年まで帝政ロシアの支配下にあり、多くのポーランド人が政治犯として家族とともに極寒のシベリアに流されていました。第一次大戦が終わり、ポーランドはようやく独立を回復しましたが、ロシア革命の混乱の中で十数万人のポーランド人がシベリアに取り残されてしまいました。特に、親を失った子供たちは、飢餓や伝染病で衰弱するなど悲惨な状況にありました。ポーランドの新政府は、せめて子供たちだけでも祖国に連れ帰りたいと欧米諸国に救助を求めたのですが、ことごとく拒否され、最後に日本へ援助を求めてきました。

シベリア孤児の救出 日本政府は、ポーランドとの国交がなかったにもかかわらず、すぐに孤児救出を決定します。シベリア出兵中の日本軍が極寒の奥地に分け入り、数次にわたる救出作戦の結果765名の孤児を救出、手厚く保護して本国に帰還させました。日本を去る日、孤児たちは医師、看護師、近所の人々の首にしがみつき、泣いて離れようとしなかったそうです。
 当時の孤児の一人で2006年に亡くなられたアントニーナ・リロさんは、6歳の時にロシア極東のウラジオストクで保護され、大阪で2週間過ごした後、母国ポーランドに戻りました。彼女は、『日本は天国みたいなところだった』と周囲の人々に話していたそうです。また、リロさんは、第二次世界大戦中にポーランドでユダヤ人を助け、イスラエル政府から賞を授与されています。「日本人に助けられたので、今度は私がユダヤ人を助けてお返しした」と話していました。なお、阪神淡路大震災で孤児となった日本の子どもたちの心の傷を癒やそうとポーランドに招待したのも、シベリア孤児として日本に助けられた人たちの働きによるものです。(写真:当時の新聞記事)

◆その3 新しい国づくりの指標(第二の日本をめざせ)

 グダニスク造船所 ワレサ(レフ・ヴァウェンサ)元大統領は、1943年にポーランドの小さな村に生まれ、工業高校を卒業後、グダニスクの造船所で電気工として働いていました。第二次世界大戦後、ポーランドはソ連の監視下で表現の自由を奪われていました。造船所の仲間から信頼されていたワレサは、やがて自由を求める運動の代表者として、1980年に自主管理労組「連帯」を創設しました。
 1980年7月に食肉が50%以上値上がりしたことがきっかけで、人々は食料品の値下げを訴える行動を起こしましたが、それはやがて人間としての自由を求める運動となっていきました。社会主義政権下では命がけの行動でした。自由を求める人々の運動はさらに高まり、世界の共感を集めて、1983年にワレサはノーベル平和賞を受賞しました。そして、ついにポーランドでは、東欧における初の自由選挙が行われ、1990年ワレサはポーランド大統領に選出されました。
 大統領となったワレサは、戦争や社会主義政権下で立ち後れていたポーランドを復興させるため、人々に次のように呼びかけました。「ポーランドを第二の日本にしよう。我々は第二の日本になりたい。普通の日本の市民が体験している明るさ、自由、豊かな暮らし、そういうものがポーランドにほしい。第二の日本をめざそう。」
 ワレサは、大統領を退いてからも造船所の労働者として働きながら、自由と民主主義を守る活動を続けています。(写真:「連帯」発祥の地・グダニスク造船所正門)


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ウヤズドブスキー宮殿(ワルシャワ)

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図 書
『善意の架け橋-ポーランド魂とやまと心-』兵藤長雄 1998 文藝春秋
『ポーランドの歴史』イェジ・ルコフスキほか 2007 創土社
『ポーランド学を学ぶ人のために』渡邊克義ほか 2007 世界思想社
『旅の指さし会話帳』岡崎貴子 2004 情報センター出版局
『ポーランド電撃戦』山崎雅弘 2010 学研M文庫
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