・・・・激動の歴史と不屈の魂・・・・

激動の波蘭

◆波蘭の栄枯盛衰 

激動のポーランド現在は平和そのもののポーランドですが、過去200年間は幾たびもの戦禍や国の消滅を経験するなど、過酷な歴史を歩んできました。国土変遷の概略は左のアニメーション「激動の波蘭」でご覧頂けます。
 さらに詳しくは右記のサイトがよくできています。★Polska 990 - 2010

<中世ヨーロッパの大国として繁栄>
王宮前広場 あまり知られていませんが、ポーランドはその昔、ヨーロッパの強国として君臨していた時代があります。異民族や他宗教に寛容な国であったため、ユダヤ人など多様な民族が集まり、一大多民族国家を形成したのです。小麦や塩、銀や琥珀などの輸出によって16~17世紀初めの全盛期のポーランドは北のバルト海から南の黒海に至る広大な領土を有するヨーロッパ有数の大国として繁栄し、ワルシャワは「芸術の都」「北のパリ」とも呼ばれる、ヨーロッパを代表する都市の一つでした。(写真:雪の旧王宮)

<123年間にわたる国の消滅>
旧市街広場  ところが、皮肉なことに世界でもいち早く民主憲法を制定して国王を選挙で選ぶようになった18世紀後半には、ロシア、ドイツ、オーストリアによって国が分割され、以後、123年間にわたって地図上から国が消滅するという悲運に見舞われるのです。ショパン(1810-1849)やキュリー夫人(1867-1934)は、この時代の人です。彼らがその才能を発揮して活躍した場所は、ポーランドではなく、フランスのパリでした。自由な研究と活動を続けるために、ロシアに占領されたワルシャワを離れざるを得なかったからです。(写真:旧市街広場)

<つかの間の独立>
新市街広場  第一次世界大戦後、ポーランドは帝政ロシアの崩壊によってようやく独立を回復します。しかし、その20年後にはナチス・ドイツがポーランドを奇襲、ドイツと密約を交わしていたソ連も東の国境を超えてなだれ込み、ドイツとソ連によって国土が再び分割占領されてしまいます。
 <望まざる体制>
 第二次世界大戦後、ポーランドは国境を約200㎞西に移動して国土を再び回復したものの、事実上、ソ連の支配下で社会主義体制を押しつけられ、鉄のカーテンに閉ざされてしまいます。日本からますます遠い国となってしまったのです。(写真:新市街広場)

<真に自由な独立国をめざして>
ピウスツキ元帥広場  真に自由を回復するのは、ワレサ議長率いる「連帯」の圧勝によって自由主義体制に転換してからのことです。その後、2004年には欧州連合(EU)に加盟を果たし、順調な経済発展を続けています。当初2012年までのユーロ(EUR)導入を目指していましたが、世界的な金融危機などの影響で、導入はまだ先になる見込みです。写真は、EU加盟式典リハーサルのためにピウスツキ元帥広場に整列した兵士です。これから「無名戦士の墓」に捧げるための供え物のようなものを手にしています。


アウシュヴィッツの悲劇

◆アウシュヴィッツ

ビルケナウ1939年9月1日、ナチスドイツは突然、美しいハマナスの花咲くポーランド北部の平和な港町グダニスクを攻撃し、第二次世界大戦が始まりました。
 ドイツ軍は短期間にポーランドを占領し、ユダヤ人や抵抗するポーランド人を強制収容所に送り込みます。やがて、ドイツ国内だけでは足りず、ポーランド各地に強制収容所や絶滅収容所を作っていきます。
 ポーランド南部には、昔も今も平和で美しい古都クラコフがあります。そして、この天国のようなクラコフの西方約50㎞、オシフェンチムの地にアウシュヴィッツ強制収容所が作られました。天国と地獄の距離は、車でわずか1時間ほどだったのです。(写真:第二収容所ビルケナウ「死の門」)

アウシュヴィッツ アウシュビッツでは、最初はナチスに抵抗するポーランド人や軍人を強制的に収容し、処刑していましたが、やがて、ヒトラーのユダヤ人絶滅計画によって広大な第二収容所ビルケナウが作られます。ヨーロッパ各地から列車に詰め込まれて運ばれたユダヤ人の大半が、列車から降ろされるとすぐにガス室で殺され、焼却されたのでした。強制労働に使えそうな体力のある人は、粗末なバラックに詰め込まれましたが、劣悪な環境のため、大半が栄養失調で亡くなりました。アウシュビッツの犠牲者は百数十万人以上にのぼると言われています。歯止めが利かなくなった人間の狂気を見る思いがします。(写真:第一収容所の見学を終えて呆然とする高校生)

人間の尊厳

人間の狂気と残虐さが支配する収容所にあって、身をもって人間の尊厳を示した人がいました。死刑を宣告された囚人の身代わりとなって命を捧げたポーランド人のコルベ神父や、ユダヤ人の子どもたちと運命を共にしたユダヤ系ポーランド人医師のコルチャック先生です。

◆コルベ神父

ビルケナウマキシミリアノ・コルベ神父(1894-1941)は、1894年ポーランドに生まれ、24歳の若さで司祭になりました。1930年から7年間は日本の長崎に住んで、布教活動にあたりました。その後、故郷の修道院長に任ぜられたため帰国しますが、1939年ナチスドイツによるポーランド侵攻が始まり、ユダヤ人をかくまったとしてゲシュタポ(ナチスの秘密警察)に捕らえられ、ついにはアウシュビッツ収容所に送られてしまいます。そしてある日、収容所から脱走者が出たことで、見せしめとして囚人10人が餓死刑に処せられることになりました。一人の男が「私には妻子がいる」と泣き叫びました。その時、コルベ神父は「私が彼の身代わりになります」と申し出たのです。ナチスはコルベ神父と9人の囚人を地下牢に押し込めました。暗い牢内で死ぬまで水も食べ物も与えられない餓死刑に処せらた人は、飢えと渇きによって錯乱状態で死ぬのが普通でしたが、コルベ神父たちは互いに励ましあいながら死んでいったといわれています。当時の看守は、牢内から聞こえる祈りと賛美歌の歌声で、餓死室は聖堂のように感じられたと証言しています。そして2週間後、コルベ神父を含む4人はまだ息があったため、薬物を注射して殺害されました。1941年8月14日のことでした。

◆コルチャック先生

ビルケナウヤヌシュ・コルチャックは、裕福なユダヤ系ポーランド人の家に生まれながら、小児科医・孤児院院長・児童文学作家として、生涯を孤児救済と子どもの教育に捧げました。1942年8月、ナチス弾圧下のポーランドでは、多くのユダヤ人が絶滅収容所に送られていました。既に高名であった彼にはナチスも一目置き、助命の特赦が与えられましたが、「子どもたちも同じように扱われないなら、私は子どもたちと運命を共にします」と、ユダヤ人孤児200名あまりと共にワルシャワ北東のトレブリンカ収容所に送られました。収容所内で書き続けた彼の日記は1942年8月5日で終わっています。  子どもは幸福になる権利を持っている等、彼が考えていた子どもの人権を守る理想は、その後国連で「子どもの権利条約」として実現されました。日本も1994年にこの条約に批准しています。
  ※こどもの権利条約:4つの柱①生きる権利 ②育つ権利 ③守られる権利 ④参加する権利


誇り高き不屈の魂

◆自由と独立のための闘い

独立記念日ポーランドの人々は、第一次世界大戦までは帝政ロシアからの独立、第二次世界大戦中はナチスドイツへの抵抗、そして第二次世界大戦後は旧ソ連による支配からの脱却と、約200年間にわたって自由と独立を求めて戦ってきました。
 その過程で国を愛する多くの人々が、政治犯として投獄されたり処刑されたりしました。ワルシャワ市内には、苦しかった時代を忘れないために、当時の監獄跡がそのまま保存されています。市中央部の美しいサスキ公園には無名戦士の墓があり、衛兵が24時間体制で警備しています。
 11月11日は、第一次世界大戦が終了し、123年間にわたるロシア帝国の支配から解放された日です。国中いたるところで記念行事が催され、どの家も赤と白のポーランド国旗を掲げて、ポーランドの独立記念日を祝います。(写真:グダニスクでの記念行事)

◆ワルシャワ蜂起と戦場のピアニスト

映画で有名になった「戦場のピアニスト」は、著者ウワディスワフ・シュピルマンが、ナチスドイツの迫害から逃れてワルシャワで潜伏生活をした実話をもとに書いた本です。
 1939年9月1日、親善訪問を口実としてポーランド北部の平和な港町グダニスクに投錨していたドイツの軍艦が、突然ポーランドの守備隊を奇襲攻撃しました。これに対して、二日後には、イギリスとフランスがドイツに戦線を布告し、ここに第二次世界大戦が始まったのです。圧倒的な兵力のドイツ軍に対してポーランド軍は当初よく戦いましたが、長い国境線に兵力を散開させていたため有効に生かすことが出来ず、次第に追い詰められていきました。さらに、9月17日には、突如ソ連軍が東からポーランドになだれ込み、挟み撃ちに遭ったポーランドはドイツとソ連に分割占領されてしまったのです。しかし、ポーランドは降伏せず、以後亡命政府がイギリスから国土回復を図ることになります。(第二次世界大戦勃発の経緯については「『ポーランド電撃戦』山崎雅弘 2010 学研M文庫」に詳しく描かれています。)

ゲットー英雄記念碑ワルシャワはナチス・ドイツに占領され、ユダヤ系ポーランド人でピアニストとして活躍していたウワディスワフ・シュピルマンは家族と共にゲットーへ強制移住させられます。ゲットー内のカフェでピアニストをしてわずかな生活費を稼ぎながら過ごした平穏な日々もつかの間、やがてシュピルマン一家を含む大勢のユダヤ人がトレブリンカ絶滅収容所へ向かう列車に乗せられます。旧友に助けられ、シュピルマンは奇跡的に収容所行きを免れますが、その日から過酷で孤独な逃亡生活が始まるのでした。
(写真:ゲットー英雄記念碑)

<おすすめ動画>(YouTubeリンク)→★戦場のピアニスト予告編(2分)

僕たちも戦ったこの物語のクライマックスは1944年8月1日のワルシャワ蜂起です。この年にソビエト軍が攻勢に転じると、ナチス・ドイツは敗走を重ねます。解放地域がワルシャワ付近に及ぶと、それに呼応して8月1日にワルシャワ市民が一斉に武装蜂起しました。ところが、ワルシャワを南北に流れるヴィスワ川の東数キロまで迫っていたソ連軍は突然その進軍を止め、イギリスの度重なる要請にも関わらず、蜂起軍を見殺しにしてしまいました。親英的な亡命ポーランド政府の指揮下にある蜂起軍が勝利することはソ連にとって望ましいことではなかったのです。その結果、軍人と一般市民合わせて20万人以上がナチスに殺され、通信兵としてレジスタンスに加わっていた多くの女性や子どもも犠牲になりました。9月末には蜂起は完全に鎮圧され、ドイツ軍は報復としてワルシャワの町を徹底的に破壊しました。現在のワルシャワ旧市街や新市街の街並みは、戦後、市民の自発的な活動によって忠実に復元されたものです。(写真:少年兵士慰霊像)

ワルシャワ蜂起を記念するレンガの山過酷な状況を生き抜いたシュピルマンは、戦後結婚して子供もでき、平穏で幸せな人生を送ったようです。彼の長男クリストファー・スピルマン氏は現在福岡市に在住し、九州産業大学の教授として日本近代政治思想史を教えておられるそうです。父ウワディスワフの思い出をもとに、「シュピルマンの時計」というエッセイを書かれています。
(写真:犠牲者慰霊のためのレンガ)




未来への責任

◆ワルシャワの復興

王宮ナチスに代わってポーランドを支配したソ連は、ワルシャワを社会主義に基づくソビエト流の町に作り替える計画を持っていました。それを知った市民は、「意図と目的をもって破壊された街並みは、意図と目的をもって復興させなければならない」という信念のもと、知識人から労働者にいたるまで一致団結して当局の計画に反対、ワルシャワの町を戦前と同じ姿に復元する強硬手段をとりました。旧市街の復興は、ドイツなど各国の援助や政府の予算などにはいっさい頼らず、ワルシャワ市民の寄付と勤労奉仕だけで行われました。(写真:復元された旧王宮)

王宮「失われたものの復興は未来への責任である」という理念のもと、壁のひび一つに至るまで戦前と同じに復元されたワルシャワ旧市街は、建物そのものの保存価値ではなく、街を再建復興させた人々の不屈の意志を認められ、1980年、世界遺産に登録されました。
(以上は、2007年4月28日放映のNHK番組「探検ロマン世界遺産 よみがえる街 未来への懸け橋~ポーランド・ワルシャワ~」を参考にしました。)

 ワルシャワ旧市街の北には17~8世紀頃に栄えた新市街が広がり、キュリー夫人の生家を過ぎると、青いドームの美しい聖カシミール教会がある新市街広場に出ます。

旧市街遠望
写真:ワルシャワ旧市街(Stare Miasto)遠望

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王宮広場(ワルシャワ)

王宮広場(ワルシャワ)

    
図 書
『善意の架け橋-ポーランド魂とやまと心-』兵藤長雄 1998 文藝春秋
『ポーランドの歴史』イェジ・ルコフスキほか 2007 創土社
『ポーランド学を学ぶ人のために』渡邊克義ほか 2007 世界思想社
『旅の指さし会話帳』岡崎貴子 2004 情報センター出版局
『ポーランド電撃戦』山崎雅弘 2010 学研M文庫
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